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最高裁判所第一小法廷 昭和55年(あ)354号 決定

本籍

徳島市北沖洲一丁目一番地の五二

住居

同所一三番七-六号

製材業

佐々木和太吉

大正四年一一月一〇日生

右の者に対する所得税法違反被告事件について、昭和五五年二月一二日高松高等裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から上告の申立があったので、当裁判所は、次のとおり決定する。

主文

本件上告を棄却する。

理由

被告人本人の上告趣意は、量刑不当の主張であって、刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。

よって、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 団藤重光 裁判官 藤崎萬里 裁判官 本山亨 裁判官 中村治朗 裁判官 谷口正孝)

○ 上告趣意書

昭和五五年(あ)第三五四号

被告人 佐々木和太吉

最高裁判所第一小法廷

裁判所書記官 佐藤隆市様

御詫びと御願い

此の度びは私の無知と勉強不足によりまして大変御迷惑をおかけ致しまして誠に申訳御座いません。心の底から御詫び申し上げます。此の度びの事故によりまして、始めて悟りを開く事が出来ました事は、私のこれからの人生に何物にも優る収穫と心の底から感謝致しております。

私の現在迄の人生航路を申し上げますので御聞き下さい。昭和三年小学六年卒業と同時に十三才で東京都深川区東平野町十三番地、武市木材株式会社へ丁稚として雇はれてより親、兄弟の許からは一銭の援助も受けず、自分に与えられた仕事を天職と信じて木材一筋に五十有余年一生懸命頑張って参りました。此の間天然木である木材の事でありますので毎日毎日が研究、研究で現在迄の勉強では一部分しか判りませんが一生、命の続く限り勉強して消費者に満足して頂ける良い製品を作り宣伝費を遣はずに小売業者から註文を受ける事が今迄通り続くように心掛けて頑張って行く心算です。私は現在迄に販売に宣伝費を遣っておりません。昭和二十年三月九日西部第三十三部隊(徳島県)に中支要員として召集令状を受けて入隊する迄の八年間、昭和十二年より警防団員として帝都防衛の第一線に立って御奉公させて頂きました。

昭和二十年三月九日入隊当日、空襲により東京都深川区冬木町五番地の五の自宅は、家財道具を何一つ持ち出す事も出来ず、全焼しておりますが召集を受け、入隊した留守の出来事とてやむを得ず、また居たとしても、昭和十八年三月二十四日の第一回の空襲に始まり、昭和十九年、昭和二十年の二年間の空襲は、体験者だけが知るのであの恐ろしさは言葉では説明のしようもありません。空襲による私の被災情況は昭和二十年三月十日の徳島新聞に掲載されて居ります。終戦により昭和二十年十一月朝鮮より復員しましたが終戦後の事で衣食住の問題により徳島に住居を定めて、木材一筋に努力して参りました。私の日常生活は毎日朝五時に起床し六時迄の一時間は前日の新聞に目を通し、六時から六時三十分の間に朝食を摂り六時三十分には家を出て七時前には津田の工場に到着して居ります。工場の作業時間は午前八時二十分から午后五時迄ですが私は午前七時から午后七時ないし八時頃迄は毎日工場で作業して居ります。朝七時から始業時間の八時二十分迄の間に一日の仕事の段取りと前日の後片付の残りを整理します。従業員の内二、三名の者は朝七時前後には出勤して其の日の仕事の準備、機械の給油、点検に一生懸命です。夕方は五時に仕事が終りますが、翌日の仕事の準備の為に工場内の整理に一時間位要します。

私の製材工場は当津田の木材団地内では製材工場が数十工場ありますが大きな工場は敷地が一万九阡八佰平方米(六阡坪)其の他の工場でも敷地六阡六佰平方米(二阡坪)はありますが、私の工場は敷地二阡三佰十平米(七佰坪)で当団地では一番規模の小さい工場です。機械設備にしましても他の工場とは比較にならぬ旧式の古い型の機械ですから他の工場のやうにボタン操作による作業は出来ません。すべて人の力で能率を上げるには毎日毎日の工夫と努力しかありませんので、私は毎日毎日工場の第一線に立って頑張っております。製材工場は非常に危険な作業状態故に、私は経営者としての責任上、従業員の身体に萬一事故が起これば家族の日常生活に重大な負担がかかるので、許される時間がある限り工場の第一線に立って毎日毎日従業員と一諸に頑張っております。御陰様で毎日毎日が規則正しい生活を送っておりますので六十五才の今日迄、風邪を引いた事もなく現在、虫歯の一本もありません。厚生年金も三十年から掛けて居りますが現在勿論貰ってはおりません。現在も最高額を払い込んでおります。

復員後自立会より依頼されまして刑期終了者に働いて貰った事も二年間位有りますが私の許では皆眞面目に良く働いてくれました。従業員の場合も昭和五十一年七十二才で退職した政口政男君も昭和二十三年より一諸の職場で働いておりました。

現在勤務中の従業員も私の工場経営が続く限り一生、私の職場で頑張ってくれる人達ばかりです。こうした眞実性のある人達に働いて貰いながら、家族の問題で事故当時は睡眠不足が數年続き身心共につかれて錯乱状態になって居り判断力を失って居りました。私的な事情がどうであらうと過を犯した事は私の全責任です。反省し深く御詫び申し上げます。今後は冷静に行動し法を犯す事のないやうに努力して参ります。私の所得の発生も他の同業者との差があるやうですが毎日毎日の努力と節約の積重ねによる結果と思われます。ひたすらに経費の節約に勉めて家族四人が従業員と一丸となって私の五十年余の経験による敎えに従い消費者に満足して戴ける製品を作る事に専念して、宣傳費を遣はずに得意先より、註文を受けれるようになり市場へは出荷する事なく今日迄営業を続ける事が出来て参りました。私の勉強不足と無知の為原材料、経費物価の上昇率について行き倒産から身を守り従業員及び其の家族の生活の事が頭から放れず法を犯す結果になり深く反省しています。当局の調査を受け私の住所は徳島市北沖洲一丁目十三番七の六号ですが営業の関係上色々と届出書類に必要な印鑑証明、住民票を取り寄せる上で北沖洲では営業所から遠く時間を要しますので徳島市津田本町四丁目二番七〇号佐々木和仁(長男)の処へ書類上住所を移して居りました。和仁は子供も三人あり生活も結婚以來昭和四十八年より独立して別々の生活をして居りましたが私の無知により税務当局への届出に専従者として有ましたので認めて貰えず扶養家族の扱いを受け年間控除額四十万円しか認めて貰えず専従者三人分の給与は全部私個人の所得に計上され、また従業員の退職引当金も正式に当局へ届出の手続きを済まし毎年預り金勘定にしてありましたがこれも認めて貰えず私の所得に計上されて居ります。

専従者の給与が昭和五十年度分三人で一金五佰七拾壱万弐阡円、昭和五十一年分が一金六佰四拾万八阡円で合計一金壱阡壱佰拾弐万円の処二年間で弐佰四拾万円だけしか経費として認めて貰えず残りは私の所得に計上されて居ります。その金額が差額一金九陌七拾弐万円、退職引当金一金弐陌四万七阡八陌拾四円、合計一金壱阡壱陌七拾六万七阡八佰拾四円也は私の所得に計上されて所得の數字が大きくなり國税七十五%市民税十四%県民税四%事業税五%の合計九十八%からの税率となり其の上に加算税、延滞利子税を加算しますと一四〇%からの税額になりますので納税方法につき金融機関に御相談しました処全面的に御協力を得まして全額完納する事が出來ました。

今後の経営につき税理士の先生に御相談しました処、法人組識にすれば所得の内四十%位は留保出来るとの御話を聞き現在は法人組織に改めて営業を続けて居りますが借入金によって個人時代の納税をすまし現在の営業資金は全額借入金によりまして運転して居りますので支拂利息の負担が大きく今迄以上に経費の節約に努めて頑張り人様ならびに社会に御迷惑を掛けぬやうにし、従業員に生活上の不安を与えぬやうにするのが経営者としての私の全責任です。私は自分の身には費用はかゝりません。タバコ代だけです。其の他はお金を遣う時間もなくまた趣味もありません。趣味は毎日毎日仕事に熱中する事で一日に一歩でも前進する事が私の楽しみです。それと動く事によって健康を保ち夜の熟睡です。

現在では電気、家屋、機械の修理も八十%位迄は自分で修理が出來るやうになりました。工具類も用意して居ります。この経費も帳簿上には載りませんが年間に見積りますと莫大な金額になりますが私の趣味によって修理するので見返りを望むものではありません。

私が一年の間で休みますのはお正月とお盆の一週間位で後は日曜、祭日でも出勤して刃物の研磨、機械、車両、の修理整備に専念しておりますので現在では素人の職人位の仕事は出来るやうになりました。今後は当局に御手數を御掛けする事のないやうに税理士の先生に御指導して頂き努力して現在、國、県からの借入金も私の体が健康で働ける間には御支拂ひする心念でおります。今後共健康には十分気をつけて頑張ります。健康は何物にも優る宝です。以上申し上げました事を御判読下さいまして何卒御寛大なる御裁定を賜りますやう御願ひ申し上げます。

佐々木和太吉

昭和五十五年四月十五日

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